ura_latのブログ

深淵へようこそ

日々是綴集#24 夏を終わらせるためだけに線香花火をする。

どうも。

今日は暑い。

これは線香花火ではない

昨日はあんなに寒かったのに…

そういえば昨日初めて、大学院の授業をサボった。もちろん仮病。
良いことでは無いことは重々承知している。朝起きたら、もう間に合わない時間だった。如何せん、家から大学院までが遠すぎる。10:40からスタートなのに9:30に起きてしまった。昨年までなら、「早起きしたし、朝ご飯でも作って洗濯するか~」ができた。距離とは残酷である。来世は小中高大全て家から近いとこに行きたい。

 

今日も今日とて、ブログに書くことがない(コンプラ的に書けないことが多い)ので思ったことを書こうかなと思う。

 

最近Twitterで流れてくる「消費」について。
我々は常に消費をしている。消費をしなければ生きていけないから。
それは、水だったり空気だったり、食料だったりという物質的な物にとどまらず、時間や空間、人間そのもをコンテンツ化して消費している。

コンテンツ化されたものは、消費の対象となり、大衆向けに変容し、陳腐化する。そして、飽きられコンテンツだったものは、コンテンツになる以前のものには戻らない。

例えば、観光地。京都のオーバーツーリズムが叫ばれて久しい。京都は、歴史的な建造物が多数残っており、観光コンテンツとしての資源が豊富だった。コンテンツ化した結果、生活の景色がが薄らぎ、非日常を演出することで誰かの日常を奪っていく。

コンテンツ化とは、こういった可能性を持っている。ただ、今回はコンテンツ化の批判をしたいわけではなくて、あくまで「消費」に焦点を絞りたいと思う。

SNSが発展し、誰もがあらゆるものをコンテンツ化し発信できる時代に、誰かが行った場所、行為を、同じように再現したところで、何が残るだろうか。

 

「線香花火が夏の終わりだね」

 

いつからこの言説が流れたのか知る由もないけど、線香花火をする度に誰かが言う。なんだか夏を終わらせるためだけに線香花火をしているような気がしてしまう。そんなことは無いんだろうけど。

いつも何かを追いかけている。夏を追いかけている。

追いかけた先に何があるのだろうか。

つまらない消費だけはしたくない。

 

何も残らなかったら虚しいね。

 

では。